昭和46年08月06日 朝の御理解



 御理解 第21節
 「信心せよ。信心とは、わが心が神に向かうのを信心というのじゃ。神徳の中におっても、氏子に信なければおかげはなし。カンテラに油いっばいあっても、芯がなければ火がともらず。火がともらねば夜は闇なり。信心なければ世界が闇なり。」

 信心せよ、信心とはわが心が、神に向かうのを信心。信心をしておりますけどもね、自分の心が、神へ向かうて進んでいくと言う事を、楽しみに信心する人が少ない。信心は沢山している。わが心が神に向かうていくと言う事を、楽しみに信心させて貰う。私はもう本当に信心はそれだと思います。燃もそういう例えば、信心とはわが心が、神に向かうていくと言う事。
 それをならどこに焦点をおくかという場合、いわゆる合楽の生き方というか、いわゆる成り行きを尊ばせて頂くと、そういう生き方によって、神様へ向かうていくという、神様へ近づいていくという、信心の一つの指針というものが、はっきり教えられてある。信心せよ、信心とはとこんなに簡明な言葉で、信心の焦点を語られておるのは珍しい。信心とは拝む事だと思ったり、信心とは御利益を受ける事だと思う、仰っておられます信心とは、和賀心が神に向かうていくと言う事。
 十年例えば信心すれば、一年に一歩進んでも、いわゆる十歩だけは神様にちかづいておらねばならぬ。神徳の中におっても、氏子に信がなければおかげはなしと、その信とはどこをもって信というか、私はその信がね、いわゆるわが心の向かいどころ、向けどころというのが、いわゆる信ずる信であり、神に向かうていく神の信であり、又は真であり、果して私共が真と言う事を、どの位に身につけていっとるだろうか。神心というのをどのくらい、私共が身につけていっておるだろうか。
 私は信ずる心、信なければとこうおっしゃる。信なければとおっしゃるその信とは、やはり真であり、神心である。そこからです、いわゆる、信は自ずと生まれてくる。神様を信じて疑わない、信じて止まない、ただお願いをしておかげを頂く。万事万端の上に御都合、いわゆる御繰り合わせをこういう。そういう例えばおかげを頂く事によって神様ちゃ有難い、神様は確かにござる。神様の働きは素晴らしいというておる信ではね、必ず揺らぐ、本当なものじゃない。
 どこまでも私はいわゆる真である その真をいよいよ貫く。いわゆる神心、そういうものが強うなってくるという、そこから生まれてくる、信でなからなければ芯がなければ火はともらぬ。氏子に信なければおかげはなしとこうおっしゃる。信とは私はそういうものだと思う。お互いがお願いをする。本当に素晴らしいタイミングの中におかげを受ける。だから神様をます々信じて疑わない。
 それが本当にそういうおかげが受けられればまぁ良いんすけど、反対の事になったり、いわゆる困ったり損したりと言う所になってくるとです、もう信が緩んでくる。だから信心とはどうしても、わが心が神に向かうていくのを信心というものじゃと、お願いをすればおかげを受けます。そのおかげを受けると言う事が、神様を信ずる力になってくると言った様なものは、少し甘いですね。
 何故って神様は人間の思う様に、本当にいいなりになると言った様な訳には、いけん場合が多いのですから 自分の心が神様に向かい、一歩づつでも、神様の心に神心に近づいていくという信、そこから生まれてくる信でなからなければ。今朝もそこにお参りしておられますが、村内の上津役さんですね、千代田さんのお娘さんですね、私が子供の頃から知っている人ですね。それはもうここにおかげを頂いて以来、まぁ時々ではあるけれども、お参りして来る。
 私も又子供なりの気持ちですから秀子さん、秀子さんとこう呼ぶのです。ですがこの頃から、段々おかげを頂いてですね、あの次々というならば、不思議なおかげを頂く。先日はどげん考えてもお神様のおかげと思わにゃおられんというて、相当まとまったお金を落とした。誰にもいうわけにはいかん。ひと月間もたった、その間に田植えがあったり、田すきがあったりして、そこのね畦道に落ちとった。そこはねもう何べんも通ったか分らない、所他の者の目につかず、探しとる訳でもないのですから。
 自分の目についたというのも神様のおかげとこう言う訳なんです。昨日一昨日は家解きがございましてね、前からちゃんとお願いしてあった。ところが毎朝テレビで申します通りの台風である。お願いしとるけどどうやろかという心配であったですけども、おかげを頂いて、丁度前の日から水をうったりね、埃がいたしますから、近所に迷惑をかけますから、ところが水をうった位じゃ出来ん。ところがあくる日はああした、おしめりがあってですね、適当なおしめりである。
 合間、合間にお天気になる。もうそれはそれはもう加勢にてきおられた方達でも本当にそりゃ、こりゃやっぱぁあんた方のお父さんが親孝行してなさるけんやはり違いなさるというていわれる位、お願いしとる事はしらん。だから夜のお食事を皆にあげる時に、実はこげなふうで金光様にお願いしとりましたと、そげんいうたら、あぁそうじゃろの、それはちょいと家くずしにはうってつけのお天気、お天候のおかげを頂いてとこういう、それでもう、それを本当におかげと実感した。
 だからそういう例なら沢山ありますし、そういうものが信であるならば、今の合楽には、どれ位信者がおるかわからんです。その程度のおかげで信心になってくるのなら、それこそ無い命をを頂いた人すらがある。もうどうにもこうにも、こんがらかってしまった問題が、それこそすき櫛ですくように、お繰り合わせの中におかげを頂いたと言う事実もいくらでもある。だからそう言う事が、もし神様ちゃござるばい、神様にゃお願いせにゃでけんよと言う事がわかる信心ではね、百積んだって駄目です。
 昨日も、日田の綾部さんがお参りして見えてから、先日信心もう四十五年という人に会われた。金光様の御信心を、それでお話を聞いてみると、もう勿論、信心の喜びもない安心もない、やおおあり参らにゃ気持ちの悪かけん参りよるとこういう。だからそういう信心もあるんですよね。合楽にはそういうのはまあ少ないですね。参らにゃ気持ちの悪いけん参りよるといった様な人はない。生きたもののそこに何もそこに感ずる事の出来ない、もう難しい事。
 例えば病気でもひどい病気なら、金光様じゃいかんやはりお医者でなければいかん、問題でもちっと難しいこんがらがった問題なら、世話役きの人に頼んで、世話役の人に世話して貰わねば片づかん。金光様の信心頂きよってもそうである。それで五十年近くも信心しとって、その実際の話を聞いて貰うてです、合楽の話を聞いてびっくりして、だからそのびっくりする様なおかげの話というかそういう信心。
 成程今秀子さんの場合なんかは、神様のおかげといわにゃおられんと、思う様なおかげを頂いておっても、そこから生まれてくる信というのは、おかげは受けていかねばならぬ。けれどもです、信そのものが、神に向かうていくという信心、神に向かうていく、いわば手掛りというのは、只一生懸命参ってだけでは手掛りにはならんのです。そうにゃもう何時間ちいうちから、拝んだけんといっても神には近づかれんとです。神に近づかれるのはまこと心だけなのです。
 真の信心とは、神様が私共に求めたまう様々な修行がある。自然のそういう働きをです、神様の働きとして、その成り行きをいよいよ尊んで頂く、有難く受けると徹する。それが真心なんである。それが真の信心なんです。拝む事じゃないでしょう。参る事じゃないでしょう。そういう真が身についてくる。いついつはこういう奇跡的なおかげを頂いた。実はこうだったと、そういう体験を例えば積んだからというて、神に近づく事は出来ぬ。神に近づきたいと思うなら、どこまでもまこと心である。
 真一心である。又は一心の真を捧げての信心である。まあ今日はひでこさんの事を申しましたから、お母さんの千代田さんの事をいうなら、毎日こうしてお参りになる。それが段々信心がわかってくれば、くる程に、さあ自分の周囲の難儀な人達の事が、願わなければおられない状態が、心の中に育ってくる。いわゆる真の心、御親戚の事、隣近所の事。すぐ近所にもう酒癖が悪いと言った様なもんじゃない、もうまぁ何というでしょうか、本当の酒乱とでもいうわけでしょうか。
 飲んだらもう隣近所だけでないその人の行くところ行くところが、もう大変な迷惑を蒙る。家庭の状態はそんなわけですから、もうそれこそ目も当たられぬ程しの惨憺たる状態。子供達ももう逃げ散らけぇして傍にはおらん。只中学になる子供とそのお父さんと二人きりの生活。それこそ見るに見かねて、それこそ一心の真を捧げて一ケ月間願い続けられた 七月一日から七月一杯をその事の為に、願い続けられた。
 昨日その事の為にお届けがあっとりましたがね、もう、それこそ来る日も来る日もそれこそまあ、何ちゅうですかね、それこそ地獄のような生活ですよね。妙な声が聞こえてくる、いわゆる怒り罵る声、父子が喧嘩をすると言った様なのがね、それ以来一回もまだ、そういう声を聞かない。本当に神様のおかげ、神様のお徳ちゃもう恐れいってしまいますと。いうてわかる。
 これならばですね、私は一心の真を捧げて、そして願う、そこに生まれてくる体験、こういう体験ならば、私はもいよいよ自分のものになると思うですね 真が伴うとる、どげん考えても不思議。この頃敬親会の時にその事を話しましたら、合楽食堂のばあちゃんが言いよりました。親先生、ちょいと不思議なことじゃありますよと。あの人が家の前を通ってから、通り抜けきらない人がですね。
 もうほんなごとに家には寄らん、こうして覗いていくだけ、それで千代田さんがお願いしよんなさったですけんばいのというて、信心の分らん、もう九十にもなるおばあさんが感心しとる。自分の事なら願う、けれども仲々どうして、いわゆる信心、真心いわゆる神心神心が段々、自分の心の中に強まっていくと言う事、それが信心、そしてそれにいよいよ、いわば成り行きを大事にさせて頂くという信心をさせて頂いとる中にです、神様に近づく手立てとしては、もう、真より外にはない。
 そこからどう言う事になって来るかというと、肉眼をおいて心眼を開け、信心する者は、肉眼をおいて心眼を開けとおっしゃるが心眼が開けてくる。成り行きそのものが素晴らしいおかげ。私は昨日、いつもの場合でも感心しますけど、昨日壮年会でございました。久留米の石井さんが発表しとりましたが、そのものの見方、頂き方のすっきりしておるのに、いつもながら驚いてしまいます。
 子供が自分の甥になります、誠之助さんの息子が交通事故で亡くなった。誠之助さんの不服というのは、いわゆるお金はそれこそ金は壱千万円ももらわにゃと言った様な意気込み、ところが喜代司さんの意見としてはですね、もう例えばそれが交渉しても、交渉してもかえって悪い方になっていく。もうそこの向こうの怪我させた会社も大変、ふの悪い会社で、もういろんな事故が連発して、それでどこにも支払いが出来とらんという事実がね。もう聞いた時にです。
 例えばそういう支払いでも出来ん程しの所の人に怪我させられたり、殺されたりしたのですからね。いうならばだからこれはよくよくの事だと自分は思うと。だからそげなものは一銭でんも貰わんちゅう方が、よっぽどよかろうと言うたけど、弟達夫婦はそげなわけにはいかんから、今それに悩んでいるとこういう。喜代司さんとはそういう人なんですよね。そしてから神様から恵まれるものはほんに分らんちゅう訳。
 信心のない人は。そういう頂き方の中からそういうものは絶対、それ以上の恵まれる働きがあると言う事を皆がしらんから、それをいうと兄弟喧嘩せんならんけん、いわんばってん、むしろ向こうの方へひいきしとるという考え方。向こうのお母さんになる人なんかは、もうそれこそかえって弟達よりか腹がきまってしまう。私はもう自分のげの子供が死んだがよかったちいわっしゃる。だからもう本当に怪我させた方に対し気の毒でたまらんち言い方なんです喜代司さんの方は。
 これはもう本当はそうなんですよ。今の例えば生き方からいくとです、怪我させた方がどうしても悪か。だからどけん請求されてもどうでも、しようはなかというか、普通ですけどね、それは事実というたら、なるほど相手が酔っぱらい運転であったかもしれん。交通違反しておる運転の仕方であったかもしれん。けれどもそこに、自分の子供が飛び出してから、しかったとこういうのである。
 だから却って御迷惑かけましたと、いう気持ちだと言うんです。もうその辺のすっきりしとる事の話ぶりからね一同の者がほとほと感心しました。これに鬼に金棒、あんたが合楽に毎日通うようごとなったら素晴らしい事じゃろうねというて話ました。そして向こうは体験者なのです。そういう心の状態。例えていうと、ならば腹立てちゃ馬鹿らしかちゅ言うでしょう、もう絶対どういう場合でも腹立てん。
 いや実は子供の時分から腹は立てきらん性分だと、こう言いますけれども、その腹立を立てないという事が、どの位素晴らしいおかげを受けるかと言う事が体験を積んでいって、それこそ神様のごとある心です。私はそういう様なところがどうかというと、もうすでに肉眼をおいて心眼を開いているわけなんです。こうしてこうすれば、こうなる事が分ってる。例えば一千万円貰うてから、それこそ相手が泣きの涙で払うた金がどうして身に付くかというわけです向こうでは。
 喜代司さんにいわすると、それよりか自分家の子供が、飛びだして大変な心配をかけたですねと、これは大変な災難だった。けれどもね、これはもうあきらめます。もう御心配下さいますなと言う様な頂き方をすりゃ、もうそれこそ向こうから泣きの涙で、血の出るようなお金ば絞り取るようにして取った金よりもです、必ず恵まれる。神様から頂くお恵みを知らんから、という表現でいいよる。
 私は本当にあの信心させて頂くならね、その辺のところはね、私はいわゆる神に、近づいて行ってるしるしなんです 同時にそういう信心がです、いよいよ腹を立てちゃ馬鹿らしかと、これは如何にも腹を立てちゃ馬鹿らしかと、だから腹をたてんじゃなくして、もうそういう、いわば神心なのです。真で受けていく。そこから開けてくるものは、いわゆるもう人間の肉眼じゃない、心眼が開けてくる。
 心眼が開けてくる様になると、そいう事がはっきり言えたり行の上に表れたり出来るから素晴らしいのです。もう神様に近づいていく道だけしかない。信心とはわが心が神に向かうて行くのを信心。どのようにカンテラの中ランプの中カンテラの中に油がいっぱいあっても、芯がなければ火はともらんと仰る。今日私がいう、いうなら真から生まれてくるところの信、おかげを受けてから神様を信ずるのではない。真から生まれてくるところから生まれてくる。
 いうなら肉眼をおいて、心眼を開けと言う位そこに火がともらんはずがない。火がとせらねば夜は闇なりである。人間は必ずしもいつも明るい時ばっかりじゃない、眼の前が真闇になる時がある そういう時に信心の灯火というかね、信心の光を心に頂かせて頂いておる時にはじめて役にたつ。信心ちゃいよいよ有難いというのは、そういう事なんです。如何に世界真の平和を叫んだところで、そういう心に光を持つ、灯を持った人達の、集まりの世界にならなければ、世界の平和は望まれません。
 灯がともらねば夜は闇なり、信心なけれは世界は闇なり。だから信心させて頂く者の心の中にです、果してこのお道の信心者、信奉者の中にでもです、本当に信心を頂いておると言う事は、心に光を頂いておる人が。果してどの位おるだろうか。おかげを頂いて、それこそ、今ひでこさんの話じゃないけれども、おかげといわなければおられないというおかげならもう、それこそ数限りなく、どの位ここで頂いたかわからん。
 けれどもそれでは信にはならぬ。お母さんの千代田さんの例をとりまし多様に、一心の真が、赤の他人の為にも捧げられる信心、そこからもう本当に不思議でたまらんというおかげが生まれてくる。それなら全部がそのまま千代田さんのそれは、信になるであろうと思われるように、喜代司さんの生き方を例にとりました。千代田さん、ひでこさんの例をとりました。お互いがお願いをする、おかげを受ける。
 成程そこから信心ははじまります。けれども、いよいよわが心が神に向かうていくと言う事が嬉しい。自分の心が神に近づいていく事が有難い。自分の心の中から、我情我欲が外れて行く事が有難い。それに取って代わって、自分の心の中に真の心が育っていく事が楽しい。そう言う事をわが心が神に向かうのを、信心というのじゃと、いうておられるのじゃと思いますね。
   どうぞ。